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SCENE SECTION
01.痛み / 02.潜入 / 03.ジャッジ / 04.焔魔 / 05.偽りの理由 /
06.遺恨 / 07.欠陥 / 08.恋人
「……。ムカつくのはお前のほうだ」
「……。へ?」
きっと鼻で笑われ、更に辛辣な言葉で一蹴されるだろうと思い做していたイヴァだったが、「鉄仮面」な彼が初めて見せた、訴えるような、まるで捨てられた子犬、ならぬ捨てられた狼のような哀感漂う瞳に…動揺してしまう。
――――え。
なんだ…?
なに、この空気。
一瞬、自分がどこに居て何をしているのかさえ解らなくなり、イヴァはぎこちなく周囲を見渡すと、再度場所と状況を確認し、そして再びシオウをへ顔を向けた。
だが、状況はなにも変わっていない――ぎし、と音を立てそうな身体を動かし、シオウから目を逸らそうと試みるも、なんだか放っておけないような、申し訳ないような気持ちに咎められ…もはや抜き差しならず、仕方なく彼に問いかけてみる。
「なんだよ…俺がなにしたって」
「――――。置いてった」
「………。………――え」
二人の間を風が吹き抜け、空き缶が転がり、酔っ払いが何人か通過した。
長い沈黙の後、漸くイヴァは彼の言う「置いてった」の意味に思い至り、ぽつりと呟く。
「待ち合わせ?」
小さく頷く、でかい男。
こっくりと頷いて見せたシオウは、しかし未だにイヴァに哀愁漂う瞳を向けている。
こ、こいつ。
まさか…ずっと――根に、持ってたのか…。
「…ご」
ごくん、と喉を鳴らしながらも、イヴァは謝罪を試みる。
「ごめん…」
じっとイヴァを見つめていたシオウが、何事も無かったかのように背中を向けた。
「…。わかればいい」
「……」
ふたたび歩き出した広い背中を茫然と凝視しながら、イヴァはようやく軋む身体を動かすことに成功したが、頭の中はおびただしい数のクエスチョンマークに支配され、ただ戸惑っていた。
――――わ。
わかんねぇよ…
おまえのことなんて…。
理解しがたいシオウの言動に翻弄されている自分が厭なのに、なぜだか、思い通りに動かされている…気がする。
苦手だ。
こいつ、ほんとに…変わってる…。
通りを曲がると、夕食時に賑わう飲食街から、いい匂いが漂ってきた。
かつてのロシア帝国首都、サンクト・ペテルブルグ。
絢爛豪華な宮殿が立ち並ぶこの街は文化芸術の街と呼ばれ、閉鎖的なモスクワとは異なる開放的な情調があり、ヨーロッパで最も美しい街のひとつに数えられている。
ネヴァ川の左岸、旧海軍省から伸びたヴァスネセンスキー大通りにある、ガーディアン・サンクト・ペテルブルグ支部に一哉が到着したのは、通り沿いにあるイサク聖堂から入相の鐘が響き始めた頃だった。
沙羅とここで合流し、キジー島へ向かえとの指示を受けてモスクワから北上した一哉は、散歩がてらイサク広場周辺にあるMagic Burgerでチーズバーガーを買い、それを支部内ロビーで齧りながら、もう片手で携帯を握り、モスクワからの着信に応じていた。
「氷の能力者(ブリジット・マスター)?」
耳から入った単語をそのまま復誦し、胡散臭そうに眉を顰めた一哉だったが、通話相手のグウェンダル・クロードはすぐに肯定を返してくる。
つい先程までは彼が一哉のパートナーだったが、ここからはグウェンダルに代わって沙羅が務めることになっている。
SNIPERの参戦が危惧される今回の任務が、難度「S」に達したからだ。
レインとの交戦を想定し、既に脳内で何度も彼の動きをシミュレーションしていた一哉は、こうしてグウェンダルと会話をしていながらも、彼との戦機がいつ訪れても最高の状態でいられるよう、常に臨戦態勢を保っている。
そんな中で、「第4人目の新人類」が現れたという突拍子もないグウェンダルの発言を聞いた一哉は、馬鹿馬鹿しいという失笑と同時に、折角上げていたモチベーションを崩されたかのような苛立ちさえ覚え、やや攻撃的な口調で切り返す。
「訊いてねぇぞ、そんなヤツ。たしかなのか?」
半信半疑よりも「疑」にベクトルは傾いている。
藤間一哉、樹沙羅、レイン・エル。
現在3人しか確認されていないはずの「新人類(ニュー・ヒューマン)」が「生まれた」のではなく、潜伏し、存在していた可能性を考えるも、それは極めて非現実的なケースでしか起こり得ず、仮にそういった状況があったのだとしても、「第4の能力者」というNBCA以上の脅威を隠し通せる人物は限定される。
「シド・レヴェリッジ…ジャッジか」
携帯の向こう側でグウェンダルが頷いた。
『中央政府お抱えの研究室(バベル)にいたらしいってハナシだ。まぁ、まだ噂の範疇であることは間違いないけどな。なんでも、人為的に造られた「新人類」だって』
「つくられた?」
『あぁ。――――対「焔の能力者(ブレイズ・マスター)」仕様』
「!…レインにぶつける気かよ」
『みたいだな』
「………」
ゆっくりと身体を傾けてソファに背を凭れると、一哉はバーガーを一気に口に詰め込んだ。
ノーカロリーコーラで流し込み、嘲笑混じりに呟く。
「バカバカしい…」
――そんなもんであいつをヤれんなら、苦労しねぇってんだよ。
実際に闘ってみれば解る。
一度あいつと相見えたら――もしも生き延びたなら――その後は悪夢に苛まれる。
JUDGEなんかメじゃない。魔族なんかよりよっぽど強烈だ。
あいつは「別モノ」なんだよ。
「下らねぇ。ンなモンがあいつに掠り傷でも負わせたら、ハダカでクレムリン一周してやるっての。…そんなことより、アルフレッド・シフはまだ、ナイプに獲られたわけじゃないんだろうな」
グウェンダルはパソコンを開き、聯からの指示と送られてきた資料を眺めながら、とりあえず「ああ。…いまのところはな」と等閑に返答した。
彼の手元にあるデータは、一哉と沙羅の目には触れる事の無いものだ。
それは、今回のターゲットとされる「アルフレッド・シフ」に関するものではない。
グウェンダルは聯から別の指示を受け、モスクワに残っている。
膝に載せたノートパソコンに映っているのは、彼の「能力」による映像――現代化学では解明できないそれは、監視衛星よりも鮮明で、視点も自在、対象には防御不能な、無敵の「Cyclops(千里眼)」だった。
『ナイプが動くの、思ってたより全然早かったよな。やっぱレインってヤツは、恐ろしく勘がいいぜ。先に幹部を二人、モスクワに潜入させてやがった。…あいつ自身も動いてるみてぇだし…気をつけろよ〜、エース』
無邪気に声を弾ませるグウェンは、ガーディアンでも屈指の「レイン派」の一人だ。
一哉は携帯に向かって苦々しく舌打ちし渋面をつくるも、遥かモスクワにまで彼の不快は届かない。
軍関係者――スナイパーとは敵対関係にあるガーディアンの中にさえ、レインのファンは多い。
憎悪や恨みといった強烈な悪意を抱いている者と半々ではあるだろうが、いずれにせよレイン・エルという男には、対峙した人間を惑わせ、倒錯させるような婀娜っぽい危うさがあることは否めない。
厭な記憶を想起し、一哉は溜息と共に肩を落としていた。
新人類研究の第一人者であるガーディアンのドクター・メイズは、雄としての一時的な身体の反応は別としても、一哉が新人類以外の相手に好意を寄せる可能性は極めて低く、しかも、彼の遺伝子が求める最高の相手は―――― 一哉を凌ぐ存在…レイン・エルだと断定した。
そんなどうでもいい研究結果を不幸にも耳にしてしまった一哉は、その後1カ月間学校を休み、暗澹たる心をなんとか奮起させながら、ひたすらそれを否定し続けた――かぶりを振り、一哉は再度嘆息する。
あいつが嫌いだし、マジで消えてほしいと思ってる。
それなのに会うたび、強烈に感じる。
あの忌々しい誘惑。
アレは感情とは別なんだ…いわゆる不可抗力ってヤツで。
それに、そんなの俺だけじゃない。
あいつを前にして勃たない男なんて――いねぇだろ?
『なぁ藤間。…死ぬなよ、絶対』
ふと真剣な声音でそう言われ、一哉は顔を上げた。
髪を乱し上げ、訝しげに携帯を睨む。
「なんだよ急に…」
『おまえってなんつーかさ、ん〜…アンバランスで面白いんだよ。見てて飽きないんだよな〜…悩める青少年、ってカンジ。言い換えるとさ、つまり俺はおまえが好きなワケ。わかる?だから長生きしてほしいな〜って…』
「死ね。…もう切る」
返答を待たずに携帯を切り、それをすぐさまソファに投げ捨てると、机に載せておいたモバイルパソコンを開いて起動させる。
つい先刻手元に届いたデータ…ドクター・メイズに頼んでおいたものをパソコンに読み込ませながら、視線だけを周囲にめぐらせ、ロビーに自分以外の誰もいない事を確認する。
「…よし。――待ってたぜ」
12.1型のモニタに次々とウィンドウが現れ、DNA塩基配列、染色体の構造、繰り返し配列等の遺伝子ではない部分の情報…膨大なgenome(ヒトの設計図)が開かれていく。
ノーマンとツォンが組織を裏切り、レイン・エルという「ラット」の奪還を試みた過去の事件――レインがソールズベリーで気を失い、回復を待ってガーディアンの軍機で休んでいた…あの時。
一人医務室へと赴いた一哉は、ドクター・メイズに偽の命令を伝え、レインの血液を採取し、彼のゲノムを解析して自分に送るよう指示を出した。
これが組織や聯に対する背任行為にあたることは、重々承知している。
聯はレインの全てを握っている。彼のゲノムだけでなく、過去までを…全て。
しかしそれは、組織内の誰にも明かされることは無い。
ノーマン博士の収集した膨大なデータの全容とレインの「秘密」は、聯だけが知っている――実際のところは曖昧な予測でしかなく、その「秘密」が本当にあるのかすら明確ではないが――一哉はそう確信していた。
レインに関する数多の情報は組織内でも錯綜し、彼の過去や生態の全容を知る者がごく限られているだけに、その真偽を判別することができない。
研究所で14年もの間レインの身体に触れていたのは、ノーマンではないという話まである。
ノーマン無きあと、バベル研究所のトップとなった男の名はアスタ・ビノシュ。
まだ若い、冷えた印象の男の姿を思い起しながら、一哉はまるで挑むようにモニタを凝視していた。
ノーマンは、レインを真実から遠ざけるための目くらまし(ダミー)だ。
表面上は「代表」としてレインの研究に関わってたし、データの管理、分析は全てノーマンがやってた。
研究所内の人間でさえ、ノーマンがトップだったと未だに思い込んでるだろう。
だけど実際に、レインをコントロールしてたのは…オモチャにしてたのは、たぶん。
自分の思考能力と勘が優れていることを、一哉は自覚している。
「……。ムカつくのはお前のほうだ」
「……。へ?」
きっと鼻で笑われ、更に辛辣な言葉で一蹴されるだろうと思い做していたイヴァだったが、「鉄仮面」な彼が初めて見せた、訴えるような、まるで捨てられた子犬、ならぬ捨てられた狼のような哀感漂う瞳に…動揺してしまう。
――――え。
なんだ…?
なに、この空気。
一瞬、自分がどこに居て何をしているのかさえ解らなくなり、イヴァはぎこちなく周囲を見渡すと、再度場所と状況を確認し、そして再びシオウをへ顔を向けた。
だが、状況はなにも変わっていない――ぎし、と音を立てそうな身体を動かし、シオウから目を逸らそうと試みるも、なんだか放っておけないような、申し訳ないような気持ちに咎められ…もはや抜き差しならず、仕方なく彼に問いかけてみる。
「なんだよ…俺がなにしたって」
「――――。置いてった」
「………。………――え」
二人の間を風が吹き抜け、空き缶が転がり、酔っ払いが何人か通過した。
長い沈黙の後、漸くイヴァは彼の言う「置いてった」の意味に思い至り、ぽつりと呟く。
「待ち合わせ?」
小さく頷く、でかい男。
こっくりと頷いて見せたシオウは、しかし未だにイヴァに哀愁漂う瞳を向けている。
こ、こいつ。
まさか…ずっと――根に、持ってたのか…。
「…ご」
ごくん、と喉を鳴らしながらも、イヴァは謝罪を試みる。
「ごめん…」
じっとイヴァを見つめていたシオウが、何事も無かったかのように背中を向けた。
「…。わかればいい」
「……」
ふたたび歩き出した広い背中を茫然と凝視しながら、イヴァはようやく軋む身体を動かすことに成功したが、頭の中はおびただしい数のクエスチョンマークに支配され、ただ戸惑っていた。
――――わ。
わかんねぇよ…
おまえのことなんて…。
理解しがたいシオウの言動に翻弄されている自分が厭なのに、なぜだか、思い通りに動かされている…気がする。
苦手だ。
こいつ、ほんとに…変わってる…。
通りを曲がると、夕食時に賑わう飲食街から、いい匂いが漂ってきた。
かつてのロシア帝国首都、サンクト・ペテルブルグ。
絢爛豪華な宮殿が立ち並ぶこの街は文化芸術の街と呼ばれ、閉鎖的なモスクワとは異なる開放的な情調があり、ヨーロッパで最も美しい街のひとつに数えられている。
ネヴァ川の左岸、旧海軍省から伸びたヴァスネセンスキー大通りにある、ガーディアン・サンクト・ペテルブルグ支部に一哉が到着したのは、通り沿いにあるイサク聖堂から入相の鐘が響き始めた頃だった。
沙羅とここで合流し、キジー島へ向かえとの指示を受けてモスクワから北上した一哉は、散歩がてらイサク広場周辺にあるMagic Burgerでチーズバーガーを買い、それを支部内ロビーで齧りながら、もう片手で携帯を握り、モスクワからの着信に応じていた。
「氷の能力者(ブリジット・マスター)?」
耳から入った単語をそのまま復誦し、胡散臭そうに眉を顰めた一哉だったが、通話相手のグウェンダル・クロードはすぐに肯定を返してくる。
つい先程までは彼が一哉のパートナーだったが、ここからはグウェンダルに代わって沙羅が務めることになっている。
SNIPERの参戦が危惧される今回の任務が、難度「S」に達したからだ。
レインとの交戦を想定し、既に脳内で何度も彼の動きをシミュレーションしていた一哉は、こうしてグウェンダルと会話をしていながらも、彼との戦機がいつ訪れても最高の状態でいられるよう、常に臨戦態勢を保っている。
そんな中で、「第4人目の新人類」が現れたという突拍子もないグウェンダルの発言を聞いた一哉は、馬鹿馬鹿しいという失笑と同時に、折角上げていたモチベーションを崩されたかのような苛立ちさえ覚え、やや攻撃的な口調で切り返す。
「訊いてねぇぞ、そんなヤツ。たしかなのか?」
半信半疑よりも「疑」にベクトルは傾いている。
藤間一哉、樹沙羅、レイン・エル。
現在3人しか確認されていないはずの「新人類(ニュー・ヒューマン)」が「生まれた」のではなく、潜伏し、存在していた可能性を考えるも、それは極めて非現実的なケースでしか起こり得ず、仮にそういった状況があったのだとしても、「第4の能力者」というNBCA以上の脅威を隠し通せる人物は限定される。
「シド・レヴェリッジ…ジャッジか」
携帯の向こう側でグウェンダルが頷いた。
『中央政府お抱えの研究室(バベル)にいたらしいってハナシだ。まぁ、まだ噂の範疇であることは間違いないけどな。なんでも、人為的に造られた「新人類」だって』
「つくられた?」
『あぁ。――――対「焔の能力者(ブレイズ・マスター)」仕様』
「!…レインにぶつける気かよ」
『みたいだな』
「………」
ゆっくりと身体を傾けてソファに背を凭れると、一哉はバーガーを一気に口に詰め込んだ。
ノーカロリーコーラで流し込み、嘲笑混じりに呟く。
「バカバカしい…」
――そんなもんであいつをヤれんなら、苦労しねぇってんだよ。
実際に闘ってみれば解る。
一度あいつと相見えたら――もしも生き延びたなら――その後は悪夢に苛まれる。
JUDGEなんかメじゃない。魔族なんかよりよっぽど強烈だ。
あいつは「別モノ」なんだよ。
「下らねぇ。ンなモンがあいつに掠り傷でも負わせたら、ハダカでクレムリン一周してやるっての。…そんなことより、アルフレッド・シフはまだ、ナイプに獲られたわけじゃないんだろうな」
グウェンダルはパソコンを開き、聯からの指示と送られてきた資料を眺めながら、とりあえず「ああ。…いまのところはな」と等閑に返答した。
彼の手元にあるデータは、一哉と沙羅の目には触れる事の無いものだ。
それは、今回のターゲットとされる「アルフレッド・シフ」に関するものではない。
グウェンダルは聯から別の指示を受け、モスクワに残っている。
膝に載せたノートパソコンに映っているのは、彼の「能力」による映像――現代化学では解明できないそれは、監視衛星よりも鮮明で、視点も自在、対象には防御不能な、無敵の「Cyclops(千里眼)」だった。
『ナイプが動くの、思ってたより全然早かったよな。やっぱレインってヤツは、恐ろしく勘がいいぜ。先に幹部を二人、モスクワに潜入させてやがった。…あいつ自身も動いてるみてぇだし…気をつけろよ〜、エース』
無邪気に声を弾ませるグウェンは、ガーディアンでも屈指の「レイン派」の一人だ。
一哉は携帯に向かって苦々しく舌打ちし渋面をつくるも、遥かモスクワにまで彼の不快は届かない。
軍関係者――スナイパーとは敵対関係にあるガーディアンの中にさえ、レインのファンは多い。
憎悪や恨みといった強烈な悪意を抱いている者と半々ではあるだろうが、いずれにせよレイン・エルという男には、対峙した人間を惑わせ、倒錯させるような婀娜っぽい危うさがあることは否めない。
厭な記憶を想起し、一哉は溜息と共に肩を落としていた。
新人類研究の第一人者であるガーディアンのドクター・メイズは、雄としての一時的な身体の反応は別としても、一哉が新人類以外の相手に好意を寄せる可能性は極めて低く、しかも、彼の遺伝子が求める最高の相手は―――― 一哉を凌ぐ存在…レイン・エルだと断定した。
そんなどうでもいい研究結果を不幸にも耳にしてしまった一哉は、その後1カ月間学校を休み、暗澹たる心をなんとか奮起させながら、ひたすらそれを否定し続けた――かぶりを振り、一哉は再度嘆息する。
あいつが嫌いだし、マジで消えてほしいと思ってる。
それなのに会うたび、強烈に感じる。
あの忌々しい誘惑。
アレは感情とは別なんだ…いわゆる不可抗力ってヤツで。
それに、そんなの俺だけじゃない。
あいつを前にして勃たない男なんて――いねぇだろ?
『なぁ藤間。…死ぬなよ、絶対』
ふと真剣な声音でそう言われ、一哉は顔を上げた。
髪を乱し上げ、訝しげに携帯を睨む。
「なんだよ急に…」
『おまえってなんつーかさ、ん〜…アンバランスで面白いんだよ。見てて飽きないんだよな〜…悩める青少年、ってカンジ。言い換えるとさ、つまり俺はおまえが好きなワケ。わかる?だから長生きしてほしいな〜って…』
「死ね。…もう切る」
返答を待たずに携帯を切り、それをすぐさまソファに投げ捨てると、机に載せておいたモバイルパソコンを開いて起動させる。
つい先刻手元に届いたデータ…ドクター・メイズに頼んでおいたものをパソコンに読み込ませながら、視線だけを周囲にめぐらせ、ロビーに自分以外の誰もいない事を確認する。
「…よし。――待ってたぜ」
12.1型のモニタに次々とウィンドウが現れ、DNA塩基配列、染色体の構造、繰り返し配列等の遺伝子ではない部分の情報…膨大なgenome(ヒトの設計図)が開かれていく。
ノーマンとツォンが組織を裏切り、レイン・エルという「ラット」の奪還を試みた過去の事件――レインがソールズベリーで気を失い、回復を待ってガーディアンの軍機で休んでいた…あの時。
一人医務室へと赴いた一哉は、ドクター・メイズに偽の命令を伝え、レインの血液を採取し、彼のゲノムを解析して自分に送るよう指示を出した。
これが組織や聯に対する背任行為にあたることは、重々承知している。
聯はレインの全てを握っている。彼のゲノムだけでなく、過去までを…全て。
しかしそれは、組織内の誰にも明かされることは無い。
ノーマン博士の収集した膨大なデータの全容とレインの「秘密」は、聯だけが知っている――実際のところは曖昧な予測でしかなく、その「秘密」が本当にあるのかすら明確ではないが――一哉はそう確信していた。
レインに関する数多の情報は組織内でも錯綜し、彼の過去や生態の全容を知る者がごく限られているだけに、その真偽を判別することができない。
研究所で14年もの間レインの身体に触れていたのは、ノーマンではないという話まである。
ノーマン無きあと、バベル研究所のトップとなった男の名はアスタ・ビノシュ。
まだ若い、冷えた印象の男の姿を思い起しながら、一哉はまるで挑むようにモニタを凝視していた。
ノーマンは、レインを真実から遠ざけるための目くらまし(ダミー)だ。
表面上は「代表」としてレインの研究に関わってたし、データの管理、分析は全てノーマンがやってた。
研究所内の人間でさえ、ノーマンがトップだったと未だに思い込んでるだろう。
だけど実際に、レインをコントロールしてたのは…オモチャにしてたのは、たぶん。
自分の思考能力と勘が優れていることを、一哉は自覚している。
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