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SCENE SECTION

01.痛み / 02.潜入 / 03.ジャッジ / 04.焔魔 / 05.偽りの理由 / 06.遺恨 / 07.欠陥 / 08.恋人






すべての人間は己の裡に猛獣を潜めている
――――「ヴォルテール宛の書簡」







ロシア、モスクワ。

詩人プーシキンが「黄金の秋」と呼んだロシアの紅葉は美しいが、そのピークは瞬く間に過ぎてしまう。
小春日和が突然の白雨に変わると、並木道(ブリヴァール)はたちまち落葉に覆われた。

毛の抜けた野良犬。物乞いをする幼い子供たち。
なんでもない日常の中に、戦禍と貧困は混じっている。

黄金の絨毯を踏みしめながら、青年は黒い軍用コートに軍服という、ひときわ異彩を放つ風体で並木道を闊歩していた。

182センチある鍛えられた体躯、個性的な赤い髪、鋭い三白眼。
イタリア生まれのカナマ・イヴァは現在19歳、SNIPER幹部の1人で、龍の徽章に輝く星は2つ、階級は少将(メジャー)だ。


――――腹減った。


イタリアでの任務を予定より早く終えたイヴァは、約束の時間より1時間以上早くシェレメチェヴォ空港に到着していた。

今思えば、ミラノで心ゆくまで美味しい食事をとっておけば良かったのだ。
ジャルディネットで生パスタを食べ、クロスタータ・ケーキまでのフルコースを満喫していればこんなことにはならなかった。

「Che palle(クソ)…!」

モスクワに着き、なにか食べようと適当な店に入ったものの、いざ席についてみればメニューも店員もロシア語。

イタリア語、英語は理解できるものの、それ以外の言語はさっぱりな彼が癇癪を起こして店を出て行くまで、さほど時間はかからなかった。

しかもそれは、最初の一軒だけの話ではない。

飲食店のみならず、看板、標識、空港職員、税関職員、タクシードライバーに至るまで、この国のほとんどは英語を準用していなかった。


「ムカつくぜ、ロシア人…っ。外来客をもてなす心意気ってもんがねぇのか、あ!?」


イタリア語でまくし立ててみても、鬱憤は晴れず空腹も満たされない。


――――そうだ。
ここの連中は、全員「あいつ」なんだ。
てめぇ1人で勝手に自己完結して、相手の都合なんざお構い無しだ。


イヴァは一人納得し、早々に偏見を抱いていた。


空腹時は顕然たる運動能力の低下を示す体質のイヴァにとって、今日のように朝から何も食べていないという状態は最悪だった。

そう、落ち着かないのは朝からだ。
いつもはちゃんと食べるはずの朝食をとらなかったのは、「顔を合わせたくなかった」から。

逃げるみたいに、先に。
「あいつ」より先にナイプを出てきた。


――――ちくしょう。


怒気を込め、拳を握る。
あの忌々しい失態を忘れ去ろうと硬く目を閉じてみても、これから会う予定の相手の顔が脳裏にチラつき、目的地に近づくほど憤りは増していく。

地下鉄からクレムリン近傍のアホートヌイ・リャト駅まで行って、リッツ・カールトン・モスクワのエントランスをくぐり、待ち合わせ場所である地下ラウンジに向かおうと階段を見つめたところで、イヴァの歩みは止まってしまった。


「…はぁ」


昨夜の「失態」が想起され、嘆息と共に首を振る。


いやだ…。
あいつと。



シオウと顔を合わせたくない。



昨日の深夜。
眠れないからすこし身体を動かそうとトレーニングルームに向かったところで、弓張り月を背に煙草を燻らせていた、あの男に遭遇した。

イヴァは、不覚にも彼に話しかけてしまった。

午前2時という深更にまさか誰かに出会うとは思わず、元々「ソリが合わない」と思い、避けていたSNIPER中将、シオウ・ランにすら、なんとなく特別な縁というか、その瞬間のみの期待を抱いてしまったらしい。

眠れないなら一戦交えないかと、イヴァが誘った。
仕事以外では殆ど会話を交わしたこともない無口な上官は、どういう風の吹き回しか、すんなりとイヴァの誘いに応じてきた。

「幻惑(ダズル)」を操るシオウ・ランは秀逸な高位能力者で、イヴァはその才能に純粋な興味があった。

恐らく意識的に嫌厭され、自分と距離を置いていたはずのシオウが快く頷いたことに多少の違和感はあったが、期待のほうが強かった。

単純なところのあるイヴァは、たったそれだけのやり取りで、シオウという人間を誤解していたのかもしれないと思い直していた。

だが、それはただの僻目だったらしい。

武舞台に立つや否や、ただ戦るのはつまらないと「賭け」を提示してきたシオウは、めずらしく饒舌にイヴァを挑発してきた。

中将であるシオウは当然イヴァより格上、勝者はほぼ確定している。
明らかに理不尽な申し出だったが、ケンカっ早く、直情的なイヴァが絶対に「No」と言えないことを、シオウは知っていた。

そして彼の望む勝利の報酬は、イヴァの予想から大きく外れた、信じ難い――――悍しいものだった。

武舞台に倒れたイヴァを悠然と見下ろしたシオウは、幻惑を使ってイヴァの両手足を拘束し、当然のように彼を陵辱した。

憶えているのは、シオウの冷たい灰紫の瞳、白い肌、鍛え抜かれた体躯、長くて節ばった指、荒い息遣いと――――…。



「がぁああッ、くッそっ」

ロビーに置かれたスタンド式のスモーカーズアウトポストを蹴飛ばしたイヴァに、人々の視線が集まる。

「やっぱ、ダメだっ」

警戒を込めた沈黙が落ちても、イヴァが周囲に気を払う様子はない。
階段の前で仁王立ちになり、赤い髪を乱すようにかき上げ、長嘆する。


悪夢だ…っ!!
あれが夢だったとしても、なんつー悪趣味な夢…。
俺が、この俺様が、っ…っ。

あいつとは元々、気が合わないとは思ってた。
だけどあんな仕打ち。
俺だって、てめぇなんかっ!!


「お客様。どうかされましたか」

屈強そうな警備員が数人、用心深く近づいてくる。
またもや理解不能なロシア語が耳に飛び込んできて、イヴァが眉根を寄せた。

相手の言わんとすることは何となく伝わってくるものの、現状では、「ロシア」に関する全てが彼の気分を害す。

紅龍の徽章と黒い軍服は、巨大軍事組織SNIPERを象徴するカラーだ。
イヴァのまとう死と血の不吉は、その危険性を熟知していない者にも充分な威圧を与え、萎縮させる。

その上、彼の風貌はお世辞にも上品とは言えない。
赤い髪に鋭い瞳、只者ではない風格と人目を抜く長身。耳が切れるんじゃないかというくらいピアスが下がっていて、舌にもひとつ空いている。

極めて剣呑な空気を漂わせながら、イヴァが警備員へと視線を投げた。
数秒ほど相手を凍りつかせたのち、鬱陶しそうに顔を背け、元来た方向へと踵を返す。

「Niente…va cagare.(どうもしねぇよ、失せろ)」

忌々しそうにそう言い捨て、わざと警備員に肩を当てるようにしてから、エントランスへと戻っていく。

ホテルを出たところで再び嘆息し、トヴェルスカヤ通りを行く身なりのいい人々を一望しながら暫時思案をめぐらていたイヴァは、結論に至ったのかひとつ頷き、トヴェルスカヤ駅方面、プーキシン広場に顔を向け、小さく呟いた。


「悪ぃ、レイン」


不穏な動きを見せている新興組織「GANZ」に、シオウと2人で潜入する。
レインの指示を受けて、このロシアまで来た。

だけど…。

「要は、任務さえ達成すりゃいんだろ。そうすりゃ…レインにも迷惑かけねぇし」

自分に言い聞かせるようにそう呟き、周囲にシオウがいないことを確認してから、イヴァは目的地へと足を踏み出した。

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