「3章序―物語未満の残夜 AM4:00」



閑寂とした闇が薄明かりを灯し始める前の残夜、
2つの刀影を携えた少年が人気のない回廊を通り過ぎて行った。

彼にとって午前4時の起床は日常的で、日の出の遅れる時期でもその習慣は変わらない。
向かう先は通例どおり将官区中程にある専用のトレーニングフロアで、明け方の爽涼な空気も静寂も、何ひとつ平時と変わらないのに…気も漫ろ、溜息ばかり吐いてしまう。

今日はオフだった。
朝の鍛錬だけは休日でも1日として怠ったことはないが、大抵その後は自分なりの時間に充て高校生としての休暇を楽しむようにしている。
彼は根っからの「闇殺者」であるが故に、身に染み付いた血臭や殺気を洗うことも鍛錬と課している。
神代直樹にとって日常世界に順応し潜伏することのできる学生生活は、暗殺の為の大切な擬態に他ならなかった。

憂い顔のままトレーニングルームのエントランスに設けられた窪みへIDカードを滑らせる。
下まで通したところで手先からカードが抜け落ちた。
凝然とそれを見咎めた自分が、弁えていた以上に動揺していたのだと思い知る。
舌打ちがてら渋面をつくってみても杞憂は拭えない。こんなに己を沈痛させるのは自分自身ではない。何よりも大切な彼のことだからこそ冷静になれない。

直樹の元に1枚のメディアチップが送られてきたのは昨晩のことだった。
あれが罠だという事実は論を俟(ま)たない。
が、もし隠れもない状態になってしまったらという危惧も頭から離れない。

「ダメだな…」

熱くなっている自分を恥じ入るかのように瞳を伏せてカードを拾い上げる。
こんなに自分が感情豊かな人間だったという事実を思い知らされたのは彼――レインと出会ってからだ。馴染みのない感情に振り回され困却することもある近頃の自分を、一族の人間が見たらなんと言うだろう――思いを馳せる前に踏み止まった。考えたくもない。

主たる者の影になり盾となる術を生業とする一族に生まれた直樹は、レインという主君に殊更な情念がある。
それは忍としての本能だけではなく、もっと人間臭い、生々しい感情をも直樹から引き出す素因となってしまった。

煩わしさを感じていないと云ったら嘘になる。一般的な感情など不要でしかない。
だが、理屈だけで簡単に棄てられるほど単純な情感でもない。

「辛気臭ぇツラだな。ガリバルディの葬式にでも参列してきたのか?だったらVa pernsiro, sull'ali dorate(我が思いよ、金色の翼に乗って)でも歌ってやればいい」

思いがけず軽妙なイタリア語に出迎えられた直樹が胡乱な瞳で武舞台を一瞥した。
燃えるような赤毛に目尻の上がったビビッド・ピンクの瞳。
しなやかな体躯をTシャツとボロボロのジーンズに包んだ格好でブリオッシュを喰い千切ったイヴァが、薄暗い武舞台の上に腰掛けたまま脂(やに)下がる。

「悩み事か神代?お兄さんが聞いてやろうか」

「結構だよ。こんな夜明けまで中将とセックスしまくって、燃料チャージよろしく糖分摂ってるような淫乱に俺の繊細さは解んないから」

「淫…。――――ハ。朝っぱらから口先だけは絶好調じゃねぇか」

一瞬ムッとした表情を覗かせはしたものの、イヴァはいたって上機嫌である。
どうやら「サイコーにブッ飛んだ」らしい。
2つ年上のこの悪童が意外にもシオウ・ラン中将と息が合っているらしいことに、直樹は内心「得たり」だった。

ぜってぇ犯してやる。

矜持を超えた慢心に満ち溢れているカナマ・イヴァという男は、元々直樹の嗜虐性を煽るところがあった。
シオウにしても同じだろうと直樹は認識している。

頃合を見計らって、最高の媚薬で虐めてやろう。

直樹の密かな策略など呑気なイヴァには推察できない。
自分を凝視している直樹に何故か盛んに頷いて、飄逸に肩を竦めて見せる。

「そうかそうか。解ったぜ神代――――おまえもオトナになろうとしてんだな」

「は?」

「大丈夫だ。日本人って発育遅そうだもんな、おまえ…チビだし。生えてなくてもムけてなくても、まぁそのツラならよ、むしろタチの邪魔にもならねぇってコトで…いいんじゃね?オッケーだ。問題ナシ。レッツプレイ」

「……」

氷点下以下の陰惨な視線すら、有頂天なイヴァには効力がないらしい。
彼にとってサイコーの戦場と手加減無用のセックスは幸福の至りなのだ。
受けに転じてしまった屈辱よりも快楽が勝ったらしい近頃のイヴァは、清々しいほど平明に開き直っている。元来快楽主義の傾向が顕著な彼にとって、周囲の視線などは二の次。誰にどう罵られようとも、彼の雄としての自信は揺るがない。
非常に羨ましい性格だといえた。

手近にあったバーベルを掴んでイヴァに投げ渡す。片手でイヴァが受けたのと同時に直樹が口を開いた。

「中将はベッドの中?だったら少将も隣に埋まってろよ。二度と出てこなくていいから」
アイアンバーベルを隻手で弄ぶイヴァの表情は無邪気そのものだ。得意満面に笑んで胸を張る。
「完っ璧にオとしてやったからな〜。シオウの野郎、朝まで熟睡だぜ。俺様にかかればあんなヤツ屁でもねぇ…ってな」
無垢なイヴァの笑顔を嫉視してしまう自分がいる。長嘆息と共に髪を乱し上げた直樹が首を振った。

「少将ってスゴいよ。たまに、莫迦なのか大物なのか解んないときがある」
「なンだ?今更この俺をリスペクトしちゃってンのかよ。遅っせぇ」
嘯くイヴァを憮然とした瞳が射る。

「下らない感情を持ってても、どんだけ貶められても凹まないのってスゴいよ。…うん、尊敬しとく」
淡々とした口調には聊かの敬意も無い。

「……。をい。包茎」

目尻の下がった丸い瞳を瞬かせて直樹が憫笑した。
その視線にはイヴァが放った暴言に対する明確な怒気が含まれている。

雄として、聞き捨てならない言葉ってものがある――――
特にイヴァの場合、レインの前で軽率な雑言を吐く可能性すら懸念される。
聡明ながら世間知らずでやや天然なレインは、往々にして彼の放言を鵜呑みにする傾向があるのだ。
危険極まりない。
どんなに馬鹿げた濡れ衣だったとしても男にとっては一大事だ。

「なんなら見せてやろうか?少将が興奮して銜えちゃうだろうからヤなんだけどさ」
「言うじゃねェか。勝負だ神代…。こればっかりは敗けらんねぇ」
「本気?イジけて布団から出て来れなくなっちゃうよ?」
「上等だ!腰抜かすなよ」
「そっちこそ腰振んなよ!」

両者がジーンズに手を引っかけたところで――


「朝っぱらから何をしてるんだ…」


寝癖だらけの乱髪をかき上げながらフロアに出てきたシオウが、
エントランスから冷静なツッコミを入れた。